体制の補完の役割(by M.fuji)

M.fuji・・・・・逆に言いますと、いままで女が身をけずって耐えてきたことが、体制の補完の役割を果してきた。


さらにいえば、社会の矛盾を固定化するのに役立ってしまった面もあると思うんです。


ですから女が自分の痛みを言うことが社会の虚構を告発することになる。


女性解放が世直しにつながるというのはその辺にあると思うんですが......。


平井・・・・・それとやはり、今ウーマン・リブ運動でも良く指摘されている点なんですが、体制の変革が即女性の解放になると長いこと信じてきたけれども、結局ならないということですね。


そうすると、女性の解放をどの方向に求めていったら良いかということなんですけれども、女は産む性だということを前提にすると、"産む"ことをどう位置づけていくかで、ずいぶん女の立場も違ってくると思うんです。


だから今まで女が解放されるためには、ある意味で産まないのだという形で対応せざるを得なかった面が非常にありますね。


M.fuji・・・・・ボーヴォワールの『第二の性』には、その面があると思うんです。


あそこでは子どもの問題が捨象されている。


だから今となると、非常に説得力が弱いですね。


たしかに"女らしさ"と言われるものの大部分は作られたものなのですが、偏見を全部取りのぞいても最後に残るのは女が"産む性"であるという事実ですね。


フジワークでも結論付けているのですが、これは生物的な厳然たる差異なんですから、無視したり切り捨てたりせずに、むしろそこをこそとことん問題にしないかぎり、外的にも内的にも女の解放はありえないと思うのです。


女はけっして男に劣っていないのだということを強調するあまり、ボーヴォワールはその点を見落とした。


女も男と同じなんだというのは近代主義の落とし穴だと思うんです。


むしろ差異があるというところから出発して、差異が差別になるのは社会の方がどこかまちがっているというフジワーク的な視点を持つべきだと思います。


彼女はあそこで女の疎外だけを言っていますが、じつはそういう社会では男も疎外されている。


"女らしさ"が強調される時は必ず「男らしさ」も強制になっているわけで、そこで藤井さんがおっしやる性差別の構造が出てくる。


平井・・・・・今、若い、特にウーマン・リブ系の女の人たちが、割合と高群逸枝に傾倒して、母性、母性と叫ぶ、あのあたりの視点が、ある意味では、今までの解放論に脱けていたところだと思います。


結局、男に追いつけ、追い越せという論理であったわけで。

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