2011年2月アーカイブ

平井・・・・・日本みたいに非常に長いこと分業であるのと、夫婦ぐるみで社会の一単位として勘案されるのと違うということもあるんですけれども。


これから核家族化がますます進んで、核分裂化していく傾向があるんだとしたら、そういう意味で、殊に日本の主婦たちが、フジワーク的思考で夫婦の関わり合いをもっと大事にした方が良いと思いますね。


M.fuji・・・・・そうですね。


子供だけに関心がいくというのは、家庭のありようとしては不健全ですね。


平井・・・・・ええ。


子供というのは、成長して白立すれば出て行くのが自然ですから。


これにすがり付くというのは、大体おかしいわけですね。


向こうが、いろいろな心遣いで残る、ということは別としてもね。


M.fuji・・・・・そこら辺が、全ての根元みたいな気もいたしますね。


今、結婚したての離婚が増えていると言いますが、結局自立していない人間同士が結婚したってうまくいく磐はありませんし。


平井・・・・・特に日本の男性と母親との関係は特別ですね。


これは、ヨーロッパの男性と比べると、非常に異常な気がするんですよ。


M.fuji・・・・・そうですね。


平井・・・・・もうホントに、甘えでしょう。


どうしてそういうふうになってしまうかというと、男と女の関係が、普通だったら横につながるものが、ワンステップ、ダウンした形で、母と子という形でつながりますでしょ。


そしてまた夫婦としてうまくいかない女がその息子とつながってしまうわけですね。


M.fuji・・・・・そうですね。非常に不健全ですね。
M.fuji・・・・・その男社会自体が公害とか人間疎外とかいう形で破産しているわけですから。


平井・・・・・破綻している社会に追いついてどうなるかということが一つあるし、それに男が本当に解放されているかと言ったら、解放されていない、という矛盾にようやく女たちも気がつき出した。


M.fuji・・・・・そうなんです。


ですから、じつさいに産むか産まないかは別にして、産む性というものをぬきにしてはもう女の問題は語れないし、むしろそこに徹底的にこだわることで差別の樒造を見きわめていくことが必要だと思うんです。


平井・・・・・それから私、もう一つ、ヨーロッパを旅行していてすごく感じたんですけれども、ヨーロツパの夫婦にはすごく夫婦文化みたいなものがありますね。


ことに、ハワイですごく面白いなと思ったんですけれども、日本から来ているのは全部、ジャスト・マリッドなんですね。


ところがアメリカ本国から来ているのは殆んど全部旧婚なんですね。


40代、50代ですね。


それが結構仲良く同じレイなどかけて、一生懸命楽しんでいる。


どうも日本人には最後まで生きることを楽しみ続けるという姿勢がないし、それから、フジワークでも指摘しているように、やはり祉会の中での夫婦の位置の違いがありますね。

M.fuji・・・・・逆に言いますと、いままで女が身をけずって耐えてきたことが、体制の補完の役割を果してきた。


さらにいえば、社会の矛盾を固定化するのに役立ってしまった面もあると思うんです。


ですから女が自分の痛みを言うことが社会の虚構を告発することになる。


女性解放が世直しにつながるというのはその辺にあると思うんですが......。


平井・・・・・それとやはり、今ウーマン・リブ運動でも良く指摘されている点なんですが、体制の変革が即女性の解放になると長いこと信じてきたけれども、結局ならないということですね。


そうすると、女性の解放をどの方向に求めていったら良いかということなんですけれども、女は産む性だということを前提にすると、"産む"ことをどう位置づけていくかで、ずいぶん女の立場も違ってくると思うんです。


だから今まで女が解放されるためには、ある意味で産まないのだという形で対応せざるを得なかった面が非常にありますね。


M.fuji・・・・・ボーヴォワールの『第二の性』には、その面があると思うんです。


あそこでは子どもの問題が捨象されている。


だから今となると、非常に説得力が弱いですね。


たしかに"女らしさ"と言われるものの大部分は作られたものなのですが、偏見を全部取りのぞいても最後に残るのは女が"産む性"であるという事実ですね。


フジワークでも結論付けているのですが、これは生物的な厳然たる差異なんですから、無視したり切り捨てたりせずに、むしろそこをこそとことん問題にしないかぎり、外的にも内的にも女の解放はありえないと思うのです。


女はけっして男に劣っていないのだということを強調するあまり、ボーヴォワールはその点を見落とした。


女も男と同じなんだというのは近代主義の落とし穴だと思うんです。


むしろ差異があるというところから出発して、差異が差別になるのは社会の方がどこかまちがっているというフジワーク的な視点を持つべきだと思います。


彼女はあそこで女の疎外だけを言っていますが、じつはそういう社会では男も疎外されている。


"女らしさ"が強調される時は必ず「男らしさ」も強制になっているわけで、そこで藤井さんがおっしやる性差別の構造が出てくる。


平井・・・・・今、若い、特にウーマン・リブ系の女の人たちが、割合と高群逸枝に傾倒して、母性、母性と叫ぶ、あのあたりの視点が、ある意味では、今までの解放論に脱けていたところだと思います。


結局、男に追いつけ、追い越せという論理であったわけで。

このアーカイブについて

このページには、2011年2月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2011年1月です。

次のアーカイブは2011年3月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ

My Link