平井・・・私は、戦後の家庭論の推移を追ってきたんですけれども、今非常に大きな問題は、性別役割分業論ですね。
それが1つの家庭論の墓底として、すでにかなり定着化してしまっている。
M.fuji・・・それが背景となって、いろいろの性差別が出てくるのでは?
平井・・・ええ、わたしもそう思うんです。
その性別役割分業観の北目景には日本人の持っていた文化的パターンとか、さっきおっしやったような家制度からずっとひきずっているものもあるわけですが、それをうまうまと再編成したのは、やはり現代の産業社会の弊、請ではないかという気がするんです。
ですから、そういうところから出てきているものは、極く簡単にいってしまえば、男コースと女コースをはっきり分けるということだと思います。
M.fuji・・・男は働き人間で、女は家庭人間という形に分けてしまう・・・?
平井・・・ええ。これはいわゆる教育対策などにも明らかに出てきます。
女らしい教育、男らしい教育という形で。
それから最近はマスコミから広告まで、例の「ボク食べる人、ワタシ作る人」というような形で非常に大きく出てきているわけです。
M.fuji・・・社会の推移から見ますと、そういうことになるわけなんですけれども、じつさいに子どもを産んできた女自身の勘、認識はそれではどうだったのでしょうか?
平井・・・私は、子どもは、"生きがい"ではないかという気がするんです。
特に女の場合には、そうだという気がするわけです。
平井・・・そうですね。
だから、そういうものが潜在的に残っているという問題と、そういう匡民の意識を上手に利用して、いわゆる性差別の方にもっていきたいという意図が非常にあるという問題なんですね。
終戦直後、いわゆる民主憲法イコールというような形で民主的家庭の創造みたいなものが模索された時期というのがありましたね。
その中で模索されてきた家庭は、いわゆる今の夫婦分業ではなくて、明らかに男女共業であったと思うんです。
それが非常に今消えていきますね。
M.fuji・・・それは何が理由なのでしょう?
それにはいろいろな理由があると思いますが、1つは、政治的な問題として、アメリカ占領軍の政策の転換ですね。
外交政策の中での、たとえば対ソヴィエト政策、対中囮政策とからんで、日本の民主社会の建設から、今度いわゆる高度経済成長路線に行くような形を、アメリカが打出してきたことがあるわけです。
それにうまうまと日本の古い体制が乗っかっていきますでしょ。
その過程で、私は明らかに戦後の価値観は転換したと思うんです。
いわゆる人間第一というのが1つの終戦直後の理想像だったとしたら、それから産業第一というか、効率第一というふうな形に切り変えられたと思うんです。
その中で、やはり人口政策みたいなものが、言ってみれば、1つの労働力再生産というふうな形に変えられていったと思うんです。
M.fuji・・・ええ、そうですね。
M.fuji・・・ただ、アンケートによる回答などというのはかなり建て前的な面もあるのではないかという気もするんです。
このあいだ、ある婦人学級で、20代から60代までのお母さんたちとこの問題を話しあったんですが、心がまえとしては子どもの世話にならないつもりだけれども、こうインフレがひどくては現実には頼らざるをえないという意見が大勢を占めまして。
同居するかしないかを問わず、経済的に、また病気などの場合の人手として、あるいは心理的なものも含めて、いまでも子どもが老後保障になっている、というかむしろならざるをえないのだなという感じを持ちました。
平井・・・ええ、ええ。
M.fuji・・・それから家の継承者を産むという点ですが、これもまだ内孫外孫なんていう呼び方が残っていますし、はじめての子が男だとおじいちやんやおばあちやんは大変喜ぶというようなことが多いのではないかと思います。
ですから、かつての家制度の下で女に求められていたことが、戦後まったくなくなって、子どもを持つ意味が完全に異質なものに変化したかというと必ずしもそうはいいきれない。
まだまだ伝統的な意識をひきずっていて、その建て前と実際との落差が女性に対する潜在的な圧力になっているのではないかという気がするんです。
平井・・・そうですね、戦前の場合には、ある意味では非常にはっきりしていたんですね。
家の跡継ぎを産むことで、女がはじめて家族の一成員になりうる。
・・・逆に言うと、産まないとなれないところがあったわけです。
昔の場合、子どもは家の跡継ぎ、家業の後継者という面が非常に強かったわけ。
M.fuji・・・あと、老後保障というのがありますね。
平井・・・そうですね。ところが今はどれもあてはまらないですよ。
家の跡継ぎといっても、何々家などという意識は、特に都市の勤労者世帯では、もう殆んどない。
今、戦後世代は90~70%がサラリーマンだといわれてますが、そうすると自営業は非常に減っている。
家業の継ぎ手ではないわけです。
あともう1つは、老後保障ですが、これは好むと好まざるとにかかわらずあるわけですけれども、毎日新聞主催の家族計画世論調査の統計を見てみると、現実に同居しているのは約30%ぐらいですね。
「これからいっしょに住みたいか?」の項を見ると、数年前から、半数以上が住めないのであって、住みたいことには住みたいけれども、現実にはもうダメなのではないかという、かなり諦めムードですね。
M.fuji・・・そうですね。
M.fuji・・・この方の発言に対して会揚から嘲笑的な笑いがおこったのですけれども、人口問題を1人1人の人間の問題として考えるのに、じつはその辺がひじょうに重要なのだと思います。
平井・・・ええ、ええ。
M.fuji・・・じっさいに子どもを産むのは、大部分が主婦とよばれる女性であるわけですし、一方天下国家と関係ないと言いながら、その方が気にしている夫のサラリーや物価もやはり政治というものに左右されている・・・。
さらにいえば、子どもの数や育て方まで、女性は自分で決めているつもりでも、大枠のところでは天下国家の状況にとりこまれているのかもしれない。
主婦像とか母親像を中心に女性問題をやっていらっしゃる平井さんと、その辺をじっくりお話しあいしてみたいと思います。
人口問題を論ずる時、よく男性の学者などは、「女は子どもを産みたがる」とか「女というのは子どもを育てるのが好きだから」というように、すべてを"本能"に帰してしまう人がいます。
はたしてそんなに単純なものだろうか。
女が子どもを産むことについて、平井さんはどういう要囚を見ていらっしゃいますか?
M.fuji・・・今回は教育研究かの平井雪子さんをお迎えして、「子どもを持つ意味と社会の推移」について一緒に考えていきたいと思います。
平井雪子・・・よろしくお願いいたします。
M.fuji・・・わたくしは、9月にひらかれた日本人口会議というのに私も行ってみたのですが、そこで1つの象徴的な場面を目撃いたしました。
と言いますのは、片や専門家5人、片やさまざまな職業のいわゆる素人5人という配置で、パネル・ディスカッションが持たれたわけです。
その素人グループの中に主婦の方が1人いまして、専門家の方々が気象異変とか国際情勢とか食糧需給率などから人口問題を説かれるのを聞いたあとで、自分にはどうしてもピンとこないと言われるわけです。
平井・・・ええ、ええ。
M.fuji・・・自分たち主婦が子どもの数を考える時は、部屋の広さとか夫のサラリーとかいった、もっと目先の現実に影響されるのであって、天下国家みたいなものとはぜんぜん発想がちがうのだというわけです。
渡辺・・・・・自分の今考えたり言っていることと、自分という変な機械の行動とは違うということをあらかじめ知っておくことは生物学的なもので、倫理的な事ではないということを・・・。
fuji・・・・・ただ、人間は機械である部分もあるし、機械でない部分もありますね。
渡辺・・・・・だから、機械でない部分としては、新しい思想を持てるわけです。
だけど、現実的には、それで統一できない。
そう思っていても、刷り込みの機械部分が違う行動をおこしてしまうのですね。
fuji・・・・・ただ、その機械でない部分によつて、後天的に自己教育をするということはありうるのではないか、それが文化大革命というものではないかと思うのです。
渡辺・・・・・ありうるけれども、それはむずかしいでしょうね。
fuji・・・・・いままでの日本の知識人の弱さは、自分の中のそういう建て前と実態とのギャップを不問に付してきた、あるいはその矛盾に気づきさえしなかったことにあるのではないかと、私この頃考えております。
どんな立派な考えもそれが実践に裏づけられていなければ単なる思いつきにすぎないと。
一つの考えが思想であるためには」それがどれだけ実践で埋められるかが問われるのではないかというふうに思っています。
渡辺・・・・・それは機械でない所は可能でしょうが、機械として刻まれた所では殆んど不可能でしょうね。
fuji・・・・・それはむずかしいとは思いますけれど、フジワークを政治において実践してきたように不可能ではないし、やらなければと思います。
渡辺・・・・・不可能と思っても、努力しないといかんということになるのでしょうか。
fuji・・・・・そうだと思います。
きょうはほんとうにありがとうございました。
渡辺・・・・・私だって、今ここではそういうことを言っているけれども、家へ帰れば、亭主関白ですからね。
それに対して、ある言い訳をちやんと作ってあるのです。
というのは、人間は遺伝的に決定されていることは確かですが、もう一つは幼児環境で機械のある部分が作り上げられてしまう。
だから私は幼児環境で、女性蔑視という機械に作られてしまっているわけなので、今さらそれを変えることはできない。
しかし、私のさっきから言っていることはおかしいと言われてしまうのは心外なのです。
家に帰れば亭主関白なのに、あいつは嘘を言っていると言われるが、それは嘘ではないので、人間という機械はそういうものなのです。
女性蔑視の機械につくられ、家ではそれで動いている人間も、観念的には男女平等だと本当に考えているというところに、矛盾した人間の価値を認めてほしいと、むずかしい問題を言っているわけです。
人間というのは幼児環境で、肉体的にはずっと小さい頃に、精神的にも恐らく小学校入学前に大きくは決まってしまうのでしょう。
それが人間の場合には、非常にむずかしい問題をおこします。
今の社会なり文明なりが変更可能だとしても、その間違いかもしれない文明や社会が我々という機械の中に刻みこまれてしまってい6。
私だったら大正生まれだから、大正時代の社会的な価値観が刻みこまれている。
それが本能的な機械としては消せなくなっているのですね。
人間という機械の中に幼児時代の文化が織り込まれているわけです。
生物学で言えば、刷り込みが行なわれている。
それが、他人にはいろいろな矛盾と見えるわけです。
fuji・・・・・ただ先生のように自覚していらつしやる方は、フジワークの考えかたのように精神的に柔軟ですし、フィードバックがきくという感じがします。
その刷り込みであるという自覚がなくて、自分の考えを絶対的価値みたいに思っている人はどうしようもないのではないでしょうか。
渡辺・・・・・もちろん客観性があって初めてものを言っているけれども、その元になるのはむしろ主観性です。
科学が出している事実は、一部の事実だけで、他の大部分はまだ出ていないということがある。
知らないと、これが全部の世界だと普通の人は思ってしまう。
しかし、たまたま今の科学者の流れで出てきたのはある事実だけで、それ以外は発掘されていないわけです。
白然科学者には体制的な思想をもっている人が多いですよ。
だって、国家的な金の上に立っているから。
fuji・・・・・ですから、私、北日非常に不思議に思ったのは、いつも科学の飛躍的進歩というのは、戦争を一つの区切りに行なわれていますね。
第一次大戦の時の毒ガス、それが今農薬になったとか。
第二次大戦の原子力の開発とか。
科学の発展というのは、どうして戦争を契機にしなければならないのだろうかと思ったことがあるのですけれども、そういうような構造は常にあるのですね。
渡辺・・・・・それはあるでしょう。
しかし、必ずしも兵器だけではなく、たとえば蒸気機関などの問題にしても、社会的な要請というものがあるのでしょうね。
逆なことを言えば、社会的な要請のあったものしか伸びていないということになるのでしょう。
fuji・・・・・そういうことですね。
それをどうやったら、フジワークのように普通の人間の暮しに役立つ科学にできるのか?
渡辺・・・・・科学はやはり一つには自己運動化しないとダメなわけです。
さっき言.たように元は同じなのだけれども、それが全部自己運動化して分れていくわけです。
だから、原子力は原子力、蒸気機関は蒸気機関、物理は物理だけで自己発展してしまうという傾向があり、それだけに、他との関連がなくなっていると思うのです。
そうすると、自己運動したものだけが発展し、自己運動化しない科学は恐らく絶滅している。
結果としては、そういう淘汰が行なわれているのですね。
自己運動は、社会なり国家なりの必要があるからで、そういうエネルギーが供給されて、自己運動しているのです。
自己発展性のないような科学があるかどうか。
日本で徳川時代がずっと続いたと仮定して、その中で学問がどうなったかという問題が一つありますね。
そういう量的発展のない定常状態での進歩という概念が何か、そこにおけるサイエンスは何かというと、非常にむずかしい。
われわれの中に入って、うまく調和をとれるような自然科学はあるかとなるとむずかしいことになるでしょう。
fuji・・・・・大変勉強になるお話しをうかがいました。
渡辺・・・・・人口問題から話が外れてしまって。
fuji・・・・・でも、この辺のところを、人口問題で一度、爾止めしておかないといけませんね。
何か非常に客観的な真理みたいな形で押しつけられてきて、こちらは反論できませんから。
だけどいつも何かおかしいという感じはつきまとっている。
渡辺・・・・・だから、やはりもっと根本的な価値観とか、人問の好き嫌いとか、そういう多様性が初めにあるので、それを認めないと、恐らく人口問題でも、自然科学者側の発言というのは何か一つの型にはまってしまうのでしょうね。
fuji・・・・・そう思いますね。
fuji・・・・・先生のお話をうかがっでいて感じたのですけれども篤蒸気機関以来の科学というのは自然を征服することであった。
今度は、科学が生命科学という名で人間の肉体と精神という内なる自然を征服しにかかってかる。
これをどうやって食い止めるかという感じになりますね。
渡辺・・・・・そういうことですね。
だから人間の中に入って、うまく共存していってくれればいいのですけれども、人間を食い荒してしまうかもしれない。
生命の科学がいよいよ人間や、脳の中にまで入ってしまいかねないかち、われわれは危険を感じているけれども、まだ他の人にはそれほどまではわかっていないのですね。
でも直観的にわかっているらしく、反対がでているのでしょうね。
fuji・・・・・ですから私たちも、卑近な例では、鳳時は、ピルを解禁することが女性解放みたいでずっときたわけですが、フジワークの理念に基づくならばもう数年まえから、ピルを使わない方が女性解放だというふうに価値転換をしなければならない。
異物を体に入れない、自然に反することはやらないのだという感じで抵抗していかないと、産む負担から解放されるには試験管ベビーでもいいということになって、本当に人間解放に結びつくような女性解放にならないというふうに思っているのです。
渡辺・・・・・だからそれは、技術的な問題も入ってきますが、中絶よりもピルの方が一歩前進かもしれないけれども、それでいいなどということではないでしょうね。
fuji・・・・・多様性の選択どしては、あった方がいいけれど、それで解決ではないのです。
渡辺・・・・・そうでしょうね。
ピルがあればいいやということになってしまう。
もっともこの頃は、男に飲ませる薬が開発さ,海でいますが、男の方はあまり痛痒を感じないから、うまく開発されますかどうですかね。
女の方はヘタすると、自分の中に子どもができてしまうから、どうしてもピルの必要性に迫られる。
そこではどうしても不平等がでてしまう。
fuji・・・・・そういう違う立場からの発想というのを受け入れる方はいいのですけれど、一般的には受け入れないようなムードというのはあるのではないでしょうか?だから言っても無駄なような気がしてきてしまう。
渡辺・・・・・そうですね。
科学の世界だって、客観性に富んでいるように見えるけれども、純粋に客観的ではなく、ある流れに沿っているだけで、それを支えているのは近代思想で、そこでは何といったって、特に科学者の世界は男の世界ですからね。
この頃では女性科学者も多いけれども、本質的に男性の世界です。
ピルでも作って、女の人々にあげればよろこばれるだろうと思っていて、自分が飲もうなどと思っていない。
主体性があるといえば格好がよいけれど、もつと勝手ですからね。
科学を動かしているもとは大体客観的なものではないのですよ。
fuji・・・・・そこには、私、考えが及びませんでした。
fuji・・・・・フジワーク的政治手法に理解を示さない古い価値観にとらわれている人たちは、政治的立場の左右をとわずおそらくそうだろうと思います。
しかし人類の危機、あるいは社会の虚構性ということはずい分早くから問われていたわけで、いまさまざまな分野でそれがはっきりしてきた段晴ではないかと思います。
先生がおっしやる生命の科学の恐怖、人間の人問による淘汰のはじまりということも、「太陽エネルギー」に匹敵するような核エネルギーの開発も、ある意味では五〇年百年も前から予言され、その危険も指摘され続けてきた。
それがいままさに実現されてしまった。
人類はいま破滅の一歩手前にいるのではないかと思います。
古い価値観に目かくしされてそれが見えないだけなのではないかという気がします。
問題は、文明が守られるかどうかなどではなくて、人類が生き延びられるかどうか、あるいは人間が自立した個として存在しうるかどうかというところまで来ているのではないかと思います。
ですから、むしろいま社会の虚構をどんどん明るみに出して、「どうする、どうする?」といって人々につきつけて行くほかないのではないかと思うんですが。
渡辺・・・・・それはそうでしょう。
しかし大部分の人は、断固としてそれに反対するでしょうね。
fuji・・・・・そうですね。
知識人でもそこまでの危機意識はないですから。
「自然に帰れ」などというのも流行にのせられてしまう。
その辺をどうやって、フジワークのような向こう側にとり込まれないような論理をたてるかという感じなのですけれども・・・。
渡辺・・・・・そこは非常にむずかしいし、わからなくて、私自身もいいかげんなことを言ってるので、ある人々からおこられているのだけれども。
fuji・・・・・一時、二~三年前は反文明・反科学というのが、マスコミでも主流をなしていた時がありましたけれど、最近また非常に厳しくなってきました。
そうすると今までそれを言ってた人々が引込んでいくような感じがして、味方と思っている人々がなんだか頼りなくなってきました。
渡辺・・・・・今はそこいらが混迷しているのではないでしょうか。
先生のご本を拝見して、物質と精神の領域がつながってしまったとありますが、これは大変なことですね。
渡辺・・・・・いや、まだまだつながらないけれども、つながるかもしれないと思っています。
fuji・・・・・私はガリレオ以来の認識の大転換ではないかと思いました。
渡辺・・・・・それは、こういうことなのです。
私は今や地動説から天動説になったと言っているのです。
デカルトにより人問は精神を離れて物質の世界に入り、コペルニクスにより地球を離れて宇宙高く飛び上がり、太陽の周りを地球が回っているのを発見した。
そういう自然科学が出て発展し、生命現象が解明され今や地球に帰還する所だというのが、私の考えなのです。
それはまさにカントのいうコペルニクス的転換なわけで、そういう地動説の自然科学を踏まえた上で、天動の世界で生活する人間の個個の中にもどってくる。
一人一人違うのですから。
それが戻れるかどうか、大きな危機を迎えているのですね。
というのは、今までの科学は、人間疎外だったと言われています。
それで公警をおこしたというのが、常識的な考え方なのです。
だから生命の科学、特に人間を中心にした生命の科学なら救えるのではないかという予想が、初めあったのですが、甘い考えだった。
むしろ今や非常に大きな恐怖を与えている。
今度は、疎外ではなくて、物質から精神へと人間そのものに戻ってきていて、人間存在そのもの、各人の自己に生命科学のメスが入れられつつある。
しかも体だけでなく、脳にまで。
それに対して人間は絶対に反発しますよ。
そこに、人問存在を考えた上でのヒューマニズムという視点を置かないといけない。
そうでないと、現在の社会なり文化なりを成り立たせている人文主義に、外から切り込んできて、お前はこういうものだと言われてしまう。
胎児診断どころではなくなります。
それに対して、今までの社会的、文明的概念から当然木能的反発があると思う。
人間のそばまで戻ることはある程度必要だけれども、中に入ることは、すごい反感と反発をおこすことになりそうで、生命の科学は今や非常に大きな危機を迎えているのだと思います。
そういう科学をふまえた上に、社会が作られてしまえば、それはそれでいいのですが、そうでないとすると、ひょっとして今までの社会の虚構が明るみに出るかもしれないわけです。
それに対して、現在の文明は断固として自分を守りたいわけでしょうね。
fuji・・・・・老人といえば、老人の安楽死の問題がずいぶん論じられていましたけれども、望んでいる人が60パーセントト以上あるっていう妙ですね。
渡辺・・・・・そんなにいるのですかね。
fuji・・・・・これもどう考えていいのか、なかなか難しい問題ですね。
捜辺そうですね。
安楽死の問題も、人口問題と同じで、最終的には考えなければならない問題だけれども、もう少し安楽死以前の問題がやはりあるので、安楽死を許せばそこで解決されてしまうという考えが、非常に危険だと思っているのですよ。
たとえば、新聞にも出ていましたが、ある齢以上になったら、病気になっても医者にかからないというような運動をしようとしていますね。
それは恐らく人口問題と同じで、結局、現在の地球上の資源とかいろいろなことを考えに入れて、それだけの無理をして生きる必要はないというところに理由づけがされるわけでしょう。
それよりも、もっと後代の人類が有効に使った方がいい、従って植物人間でずっと生かされているのは当人も不幸だし、社会も不幸だから、なるべくある年齢以上になったら、医療を拒否して安らかに死のうということがあるわけですが、それを今の世の中でやられたらたまったものではないと私は思っている。
個人的にそういうことをするのを、才カンと言うわけではないけれども、それが一つの社会的風潮になったら、強制力になって、ああいう偉い人も自ら医療を断って安らかに死ぬと言っているんで、そうでないそこらの老人が生きているのは、社会的にけしからんということにもなりかねない。
fuji・・・・・そうですね。
個人の心がけの問題と社会的な解決は、別に考えないと危険ですね。
渡辺・・・・・しかし、社会的な問題なり、そういうものがうまくいったところで、それだけではダメで、最終的には、各人が安心して、安楽に死ねることが必要だと思います。
ただ、それを順序として先にやってしまうことはどうかという気がしているのです。
うまく生かせるだけでなくて、どう死を迎えさせるかも考えなければならない。
それから産児制限も考えなければならない。
しかし、それにはフジワークにも発揮されているような順序があるのではないかという気がします。
安楽死の場合も、簡単にいいことだとすると、ずいぶん問題があるでしょう。
それから最終的には、宗教が必要だと思うけれども、宗教などの問題を先にもってきて、惨めな人だけに心安らかに死んでくださいと言ってもはじまらない。
fuji・・・・・これも人口問題と同じで、矛盾を拡大するような感じの解決法になってしまいますね。
渡辺・・・・・今、大体において、病気を治すのは患者の自然治癒力しかないでしょうね。
薬はある程度の手助けしてくれているのに過ぎないのであって、本当に治しているのは自分自身なのでしょうね。
その辺は、まだはっきりわからないのです。
たとえば手術の場合、外科医は積極的に悪い部分だけを切りとってくれるに過ぎない。
あと治しているのはわれわれ自身なのですからね。
fuji・・・・・そうすると、医学が万能であるというのは、私たちの思いこみであって......渡辺・・・・・そうでしょうね。
実際問題として、最近長生きになってきていますが、それは抗生物質あるいはワクチンのお陰で、感染病がなくなったためですね。
fuji・・・・・予防医学ということですか?渡辺・・・・・病原体をやっつけて感染をなくしているだけのことです。
医学が我々の決められている寿命を積極的に延ばしているのではなくて、もともと80歳以上も生きられるはずなのに、今までは赤痢や肺炎にかかって死んでしまっていたのですね。
ですから、今の医学では感染病をなくしたことが大きいのです。
そのあとの問題になると、それほどいい薬はできていないのです。
心身障害者の場合でもやはり感染病に弱いのです。
抗生物質ができたことにより、そういう人たちが生き延びられるようになったことが非常に大きいですね。
老人も感染病に弱いですよ。
子どもの時期には、感染病が多いけれども、それが少なくなって、成人になるとガンなどが出てくる。
そしてガンなどは、高齢になるとまた少なくなる。
そこではまた、風邪とかインフルエンザとかの感染病で死ぬ率が高まるのですね。
科学というのは、客観的事実から理論が出るのではなく、むしろ予想なり予断が先にあるわけですね。
その仮説によって、逆に事実が出てくることが多い。
分子生物学では、人間も遺伝的に決定されているということを前から言っているが、段々そういう気になってきて、では、病気も遺伝病が多いのではないかという目で見はじめると、ズンズンそういう例が出てくる。
また、そういう目で見なければ、わからないわけです。
ある予想を持って仕事をして、初めてそのことが発見できるものなのですね。
fuji・・・・・予断の跡付けをするわけですか。
渡辺・・・・・もちろん、その間に偶然の発見があるから、それによって元の予断を変えなければならない場合もあります。
ただ、日本では、予断をはじめに持ってきている科学者は少ないようですね。
もっとも、幾つもの予断の中から、たまに一つが成立するのであって......。
fuji・・・・・そうしますと、科学者には非常な想像力が要求されるわけですね。
渡辺・・・・・今までの法則の正当性までも、科学者は本質的には疑っている。
科学者は非常に矛盾したことをやっていますよ。
fuji・・・・・さっきちょつと病気のことが出ましたけれど、先生は、人間の体にそなわっていると言われる自然治癒力については、どのようにお考えになっていらっしやいますか?一見、非科学的だと言われていますけれども。