2010年9月アーカイブ

渡辺・・・・・反技術なり、反科学という議論もあるのだけれども、実は、現在の科学技術に合うような道徳なり社会体制ができていないで、非常に古いままであるのもおかしいと思いますね。

だから、今までの道徳も変わり、その上で、科学技術が制限されることは必要だと思うけれども、今のままの道徳観なり社会体制のままで科学や技術がけしからんと言われたのでは困るという疑問を持っています。

特にセックスの場合、私たち男よりも、やはり女性にとって大きい問題なのではないでしょうか。

fuji・・・・・建て前を押しつけられる度合はいつも女性の方が多いわけですから、結婚に際しても、今だに女性に処女性を求める男性が多く、逆の例は大変少ないというようなことがあります。

未婚の父はとがめられないけれども、未婚の母への風当りは非常に強いというのも同じ考え方からくるわけです。

生殖と性行為の分離ということも、男性にはずっと昔から認められていたのかもしれません。

女性だけが妻という生殖用の女性と娼婦という性行為用の女性とに分けられていた。

いわば性の二重基準を押しつけられていたと言えます。

渡辺・・・・・旧来の道徳を変えることで、社会体制が全く変わる可能性もあるわけですね。

夫婦とか家庭とかいう問題もむずかしくなり、なるぺく触れたくないということがあるかもしれないけれども、やはり本質的にはそこらも問題かのではないですかね。
渡辺・・・・・子どもを産まないで、セックスだけできる時代になっているのに、そういう形では、だれも教育されていない。

ということは、さっきとは矛盾するけれども、子どもを作らなくても結婚生活は可能なわけですね。

たとえば、遺伝的欠陥がある人間同士でも、安心して結婚できるわけですね。

近親結婚も逆に今は可能なわけです。

今までは当人たちが好きでも、いとこ同士では優生学的にいけないとか言われていたわけですが、現在は、人口問題なども控えて、子どもなど作らなくても、逆にいいかもしれない。

それだったら、そういう結婚もいいということになりうる。

そうすると今までのタブーは、相当破れるわけでしょう。

要するに、子どもを作るという前提がなくなったら、結婚問題というのはものすごく話が違ってくるのではないでしょうか。

fuji・・・・・そうなんです。

今の文明社会では、現実には、もう生殖と性行為とは分離されているのに、それを一致させようとしての建て前でしか論じられてこなかった。

渡辺・・・・・さっき言ったように、精神障害者と慌惚の人が多いのに、それを救う世の中になっていないのと同じように、生殖作用とセックスということが分離されているにもかかわらず、男女の問題は、子どもを作るという前提でしか道徳的判断がないわけで、それは実情に合わないですね。

fuji・・・・・そうなのです。

ですから私が欲しいのは、性科学に裏付けられた新しい性道徳というものなのです。

今若い人たちがその点で混乱していると思うのですけれども、これからますますひどくなるのではないかという気がしております。

fuji・・・・・西欧型近代社会の価値観が、絶対的モデルとして押しつけられておりますね。

渡辺・・・・・人口制限は重要だと自分で言っていて矛盾するけれども、一色で塗りつぶされては困るわけです。

そしてそれには、多様な民族が共に生き得るような人口制限は何か、という問題があるわけですね。

国内においては、心身障害者や老人も生きられるような人口制限の道を見つけ出すということが重要だと思うんです。

それが、人類の繁栄とか、日本民族の繁栄とかいう大義名分で一色に塗りつぶされるのは危険ですね。

あるタイプの人間だけ作るというようなことは、日本における明治以来の教育などに端的に現われているわけで、教育における多様性というのは殆んどないのですが、そういう社会での人口問題というのは、大変むずかしいのではないかと思いますが。

fuji・・・・・大変良い結論になってきたようなんですけれども、私が、もう一つ先生にお伺いしたかったのは、性の問題なんです。

科学的立場からの。

つまり、科学のレベルでは生命の問題は遺伝子工学まで扱っているというのに、個人のレベルでは、生命の再生産の要因である性というものがタブー視されていて、人間は晋より無知になっている而さえあると思うのです。

そこのところをつなげていく、人問の側から見た性科学のようなものが、あるいは性の哲学というべきかもしれませんが、そういうものがあるべきではないかと思うのです。

渡辺・・・・・実際問題として、避妊が簡単に、しかも確実にできるようになり、生殖とセックスが分離してきた。

現在の社会では、セックスは子どもを産む問題では必ずしもない。

生物学的な問題とか種族的な問題とかではない形の、つまり人間の本質というか、遊びというか、とにかくセックスだけが独立して解放されているのですが、社会的には瓜俗や道徳に違反するということで、それを抑えているのは、むしろ不健康ですね。

fuji・・・・・そうです。

そこが問題だと思うのです。

fuji・・・・・ただ、本当のインターナショナリズムというのは、ナショナリズムを突き詰め、それを尊重するところに初めて成り立つのに、今は大きなものに一方的に吸収されてしまうという形での、インターナショナリズムでしかないという気がするんです。

渡辺・・・・・今思い出したんですが、さっき近代の非常に大きな特徴は進歩主義だと言ったけれども、その裏には、やはり西欧の世界制覇の問題があるのではないかと思う。

全部を西欧一色のものにしてしまうわけで、自然科学自体も、結局はその流れに乗っているわけですね。

西欧的な世界統一という問題がある。

それでは、多元的な世界という可能性はどうか。

最近いちおう西欧の世界制覇が、文化的、軍事的、経済的に全部破産に瀕してしまい、それと民族独立などが並行し、文化面では、文化人類学みたいなものもその流れに乗って、文明は西洋だけではないということが、段々確立されてきているわけでしょう。

しかし、多元的な文明社会が、どうしたらできるかということはむずかしい問題ですね。

自然科学にしても一六世紀以来の西欧自然科学以外の自然科学があり得るかどうかが問題なわけでしよう。

fuji・・・・・先生のそのお話を伺いまして、素人の感じですけれども、ギリシャの頃の科学者というのは、たとえばエン.ヘドクレスなんか見ましても、同時に哲学者で詩人でもあった、宇宙観も持っていた。

それが段々、細かく分化されてしまい、近代になればなるほど、タコツボ式に専門化が進んでしまって、その辺に何か問題があるのではないかという気がしますが。

渡辺・・・・・タコツボ化ではなくて、それが全部統一されているわけです。

分化されているけれども全部一つ穴のムジナなのですね。

fuji・・・・・なるほど、そこが問題ですね、むしろ。

渡辺・・・・・そうです。

それが問題なのですね。

要するに、部分化したために、逆に普遍化が行なわれているわけです。

各人が、違う文化、違う文明を追えないわけですね。

だから、本質的にはむしろもっとタコツボ的な方が良いのではないかという気もするわけですけれども。

それで、人口問題にしても、そういう世界的統一像の上で話し合おうとするのが、私は非常に危険だと思うんですがね。

fuji・・・・・なるほど、もう一つ奥があるわけですね。

渡辺・・・・・という気がしてね。

そういう統一観の上に立っている今の人口制限なり、人類の繁栄という問題は、やはり今のままの形でいったら、西欧的な文明を持った人類の繁栄といっていいのではないかということで・・・。

fuji・・・・・そういうことですね。

渡辺・・・・・日本は明治以来、徹底的に西欧化しているでしょう。

日本古来の思想があるかどうか知らないけれども、日本古来の生き方があれば、日本はそれを主張すべきだし、よその発展途上国にもそれが必要なんですね。

そういうものが共存できる人類繁栄ならばいいけれども、今の人口問題は、どうもそうではないようですね。

fuji・・・・・最近人口問題が急に言われてきたのは、一体何だろうかと考えておりましたんですが、この間目本人口会議に行きまして、その某詞演説を聞いていて、そうだったのかと思い当ったわけです。

つまり今、食糧の輸出国はオーストラリアとカナダとアメリカの三つしかないのだそうです。

アメリカが一番多いのですけれども。

そしてアジアの国は全部輸入国なんだそうです。

そうすると、日本がそのアジア諸国と競合関係になってしまう。

そのために、日本は制限をしているのだ、だから、アジアの国々も制限してもらわなければ困るというキャンペーンをしたいというのが、要するに体制側の本心のような印象を、私は受けたのです。

もう一つは政治的に、ペトナム以後、日本がアメリカの肩代わりをしなければならない。

そのためには、アジアの人口過剰というのは非常に重荷なので、制限してもらわないと困るというのが出てきているという点で、なるほどこれもまた政策上の必要から言われているのかと、とても嫌な感じがしたんです。

人間が生きていくために、何が良いのかという根本のところはいつもお留守になって、生産第一主義の今の体制を維持することだけが考えられているような気がするんです。

渡辺・・・・・そこでは、・個人と人類の間に国というような中間の集合体があるから、どうしてもむずかしい問題が起こるのでしょうね。

けれども今後の文明の基礎に、自己犠牲ということがあるとすれば、国家としても自己犠牲という発想がなければならないわけですね。

ところが、それは現在の競争的な国家の間ではできないですね。

fuji・・・・・ダメですね、絶望的ですね。

渡辺・・・・・国際政治はパワー・ポリティツクスだから、実際には、国家のある限り、そういうものはできないのではないかども思いますね。

fuji・・・・・結局、国家の廃絶までいかなければ・・・。

渡辺・・・・・共存的でなく競争的な現在の国家の廃絶は必要かもしれないが、民族的な特殊性は残さなければならない。

そこに非常にむずかしい問題があるのでしょうね。

渡辺・・・・・日本の場合は、アメリカほどではないけれども、世界平均の何倍もの物資を使っているわけですね。

しかも日本には資源がない。

そういう日本人が生きぬくには、どうするかということで、日本の人口問題には、別な考えを入れなければならないと思うのです。

というのは、日本は国際社会と共じつ存しようとする実を示すために、個人の問題を抜かして国策的な問題として、"日本は人口制限をしています"と言わなければならない。

つまり、日本人各人の物質的な生活水準をこれ以上あげるためではなくて、国際的資源の使用を少なくするために、そういう制限をしているのだということを示すためで、それは国際政治としては必要な態度だと思うのですが。

fuji・・・・・何か格好だけしているところもあるわけですね。

渡辺・・・・・いや、格好だけのようだけれども、そうではない。

日本における人口計画は戦後うまくいった例とされているけれども、実はちつともうまくいっていないという気がします。

目標がはっきりしていないと思うんです。

初めは各個人の生活を守るためだったわけでしょうね。

それが途中から、経済成長と見合って、良い生活をするために惰性的に産児制限をしているに過ぎなくなった。

だから、経済が成長してきたら、ある程度制限が緩和されてしまうわけですよ。

そうすると今度は、日本は人口が多いのだから、食糧をよこせというようなことになる。

でもやはり、それは少しおかしいですよ。

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