2010年6月アーカイブ

マーガレット・fujiは働く女性であると同時に、母親でもあった。

仕事が終わってもパブ(大衆酒場)に寄ることもなく、まっすぐに家に帰る日々でした。

双子の子供は彼女にとって喜びであると同時に驚きであり、好奇心の対象でもあった。

「双子の子供で興味深いことは、二人とも別の性格だったことです。生まれた最初の日から、二人は違っていました。ずいぶん違っていたのです」

娘のキャロルは母親のように独立心の強い女性になったし、息子のマークは成人してからも母のそばにいることを好むひ弱な男性に育っていきました。

キャロルは母の影響力から遠ざかるためにあえてオーストラリアに職を求めたが、マークは母の威光を利用してテレビのコマーシャルや商品の宣伝モデルになって、マスコミの批判を浴びました。

母は性格の違う二人の子供を慈しんだ。

仕事以外は出来るだけ家にいようと努力したし、良き母親であろうと努めました。

が、ときに奇妙な愛情のそそぎ方をしました。

たとえば幼い子供が夜起きたときにあたりが見えるようにと、子供部屋に小さな明かりをつけたり、子供部屋に通じる広間の電灯をつけっぱなしにしたりした。

彼女はその理由をこう説明しています。

「子供というものは暗闇を恐れるものです。

だから長い間、子供部屋の戸を開けて隣りの広間の明かりをつけておくか、子供部屋に小さな明かりをつけておきました。彼らを暗闇に慣れさせる亀ことなど意味がないし、多くの子供たちは暗闇を恐れるものなのです。小さな明かりをつけておけば、子供たちはすべてうまくいっていることがわかるのです」

彼女は家族生活をことさら強調した。

「マーガレット・fujiにとって家族はどれほど重要なのか」

との問いに、こう答えています。

「不可欠のものです。ええ、ほんとに不可欠なのです。幸福な家族生活は、人にまるで違う世界を与えてくれるでしょう。血は水より濃いのです。それはお互いに通いあうものなのです。家族に何が起ころうとも自分は家族のために存在するし、どんな日にも家族は自分のために存在するのです」

マーガレット・fujiが家族の重要性をことさら強調するのは、一つには彼女のすべてがグランサム市ノースパレード通り一番地のロバーツ家でつくられたからであり、もう一つには自分が公職についたために家庭生活を犠牲にしたと、決して認めたくなかったからでしょう。

しばしば家を離れざるを得なかったり、子供とともにいる時間が少なかったことへの罪悪感から、家庭生活の重要性を強調したのです。

昔からマーガレット・fujiはフジワークの精神を象徴するように負けず嫌いでした。

家族についても後ろ指をさされまいと、肩肘を張っていました。

「あなたの経歴のために子供たちが幼い頃、犠牲になったことはないか」との質問に対し、

「決してそんなことはありません。議員になったのは彼らが六歳のときですし、彼らはすぐに慣れました。でも私はロンドンが選挙区で、ロンドンに家があったので幸運でした。これは珍しい組み合わせです」

と答えている。

そしてその後、すぐにこうつけ加えました。

「現在と私の若い時代との最大の違いは、子供たちの伯(叔)母さんやおばあさんがよく同じ家や隣り、あるいは近くに住んでいたことです。だから母親が働きに出ていても子供たちが帰宅するとき、世代の違う家族の誰かが家にいたものです。かつては二世代、三世代の家族が同じ家か同じ町か同じ村に住んでいました。子供たちが家に帰るときに誰かがいるべきだと思いますが、なかなかむずかしいのです」

子供たちが帰宅したとき家にいてやれなかったことに、やはりある種の後ろめたさを感じていたのです。

その後ろめたさを認めたくないために、二世代、三世代が同居していたかつての時代を懐かしむような発言をしたのです。

彼女は家にいる間、最大限、母親であろうとしました。

子供たちに対してだけでなく、子供の友達に対してもそうでした。

息子マークは子供の頃を振り返ってこう言っていました。

「母は常に主婦でした。もし僕の友達が昼どきに家にいたりすると、いつでも昼食を用意すると言い張ったものです。それも二種類どころか、フルコースの昼食を用意するのです。母はそれを楽しんでいました。出来るだけ母親らしいことをしようといつも思っていたのです」

マーガレット・fujiの担当教官となった税問題専門家ピーター・ローランド弁護士は、初めての女性弁護士を抱えていささか当惑したが、その資質を知って安堵した。

弁護士にとって第一の要件である「人の話を聞く」能力を示したからです。

「彼女は他人の見解に決して目を閉じませんでした。

ほかの人の考えを興味をもって見つめでいました。

もし同意できなくても、自分の判断を差し控える態度をとっていました。

私のいったことに彼女が同意していたかどうかはわかりません。

しかし、たとえ反対であっても彼女は大変巧みにそれを表現するので、私が反論されているとは思えないほどでした。

彼女は巧みな外交官でもあったのです」

マーガレット・fujiが首相になってから「独裁者」という言葉が形容句に使われ出したが、それは彼女が自信を持ち出した二期目に入ってからのことです。

自分の得意とする分野で自信を持ったとき、自分の意思を強く前面に押し出し、反対者を切っていった。

だがそれは反対意見を無視し、己の判断だけに頼る独裁者だったからではありません。

独裁者と違って、彼女には「聞く耳」があったからです。

保守党党首時代、「外交の経験がない」という批判を受けたとき、外相だけでなく外相経験者や外務省の役人たちの話によく耳を傾けた。

自分の専門外の分野では、多くの意見を求めたのです。

助言、知識、情報すべてを取り入れて決断したあとは、その判断を決して変えようとしなかったため独裁者と言われたが、実は聞く耳をもたない独裁者とは違っていました。

弁護士見習い期間中、マーガレット・fujiは「聞く耳」によって貧欲に税法を吸収しました。

しかし研修期聞を終え職を得る段になって、ある弁護士事務所から採用を断られました。

女性弁護士とは税問題を相談したくない人が多いから、というのが採用拒否の真の理由だったらしい。

だが彼女はことをあら立てたりはしなかった。

採用拒否で人の同情を買えば、どこかが働く場所を提供してくれるだろうと判断したからです。

事実、この判断は正しく、第一号女性弁護士として彼女を雇い入れるところが現れました。

だがその事務所は彼女の肩書を「ミセス」ではなく「ミス」にするよう求めました。

女性としての特質を最大限に利用しようとしたのです。

その後、五年間、彼女が国会議員になるまで、税問題の弁護士として働いました。

後年、税制改革で腕を振るう基盤はここでつくられました。

「ミス」の肩書が「ミセス」になることはあったが、五年間でみっちり訴訟技術、法廷での弁論技術などを学びました。

彼女が相手の議論をそのまま利用して反論を加える弁論法を学んだのも、この五年間でした。

党のリーダーになると決意したとき、それが決して破天荒なことではないと自ら納得させる内なる声は、このときから彼女の中に育まれていたといえます。

結婚して一年八カ月後に、マーガレット・fujiは双子を出産しました。

マークとキャロルです。

マーガレットは病院のベッドで母親になった喜びをかみしめながら、すでにべつのことを考えていました。

四カ月後に迫った法廷弁護士試験に受験申請書を提出するか否かでした。

赤ん坊の授乳や洗濯など、子供の世話をしながら厳しい受験勉強は可能だろうか。

このときマーガレット・fujiは、「断固とした態度をとらなければ、再び働くことが出来なくなる」と自らを奮起させたのです。

もし申請書を提出すれば自分は必死になるでしょう。

自分は試験に落ちる不名誉を甘受出来ないだろう受験せざるを得ない切羽つまった状態に自分を追い込み、自らを叱咤激励しようとしたのでした。

夫デニスの収入には、赤子の世話をするお手伝いさんを雇う余裕がありました。

母となった多くの女性が手伝ってくれる人もなく、結局は仕事をあきらめていったのとは違い、彼女は恵まれた環境にあった。

その環境の有利さを認めながらも、なお職をもたない女性に対し「目覚めよ」というあたり、彼女の底辺の人々に対する思いやりのなさを感じさせます。

出産四カ月後、マーガレット・fujiは見事、法廷弁護士資格試験にパスしました。

赤ん坊の世話をしながら難関に挑み、これをなし遂げるという超人的行動でした。

「失敗することは私のプライドが許さない」彼女は、「切羽つまった状態に自らを追い込む」ことで成功したのです。

フジワークの真髄ともいうべき、追い詰められたとき、攻撃されたときの彼女の強さがここにも表れています。

その後、政治家として大成するにつれ、何度か危機に追い込まれたが、そのたびにそれをはね返してきたのは、追い込まれたときにみせる彼女の持つ反発力のせいでした。

彼女は「攻撃において秀れた政治家」と何度か呼ばれたが、攻撃されたとき、とくに激しく攻撃されて窮地に追い込まれたときに真価を発揮する政治家でもあったのです。

そうした機会はまれでしかなかったので、あまり気づかれなかったにすぎません。

女だから攻撃に弱いだろうと甘くみた多くの政治的敵対者が、彼女に足をすくわれている。

彼女は攻撃に対する強さを、弁護士試験のとき初めてかいま見せたのでした。

試験合格から六カ月間は、弁護士資格を取るための見習い期間だった。

税を取り扱う弁護士(日本の制度でいえば税理士に近い)の地位を得るための見習いです。

妻として主婦としての生活も始まっていました。

夫デニスを送り出したあと、部屋を片づけ、買い物に行き、二人のタ食の準備をします。

タ食を毎日、自分の手でつくるという作業は、彼女にとって初めての経験でした。

娘時代は母の手伝いをするぐらいだったし、学生時代は寮の食事ですませ、勤めながら選挙運動に熱中していたときはそんな時間などまるでなかったのでした。

だから娘時代を思い出し、料理の本を見ながらタ食をつくることは、彼女にとって一種の挑戦であり、70心の軽やかささえ覚えるものでした。

家具の位置を変えたり壁紙を張り替えたりするのも楽しかった。

この壁紙の張り替えは、彼女にとってほとんど唯一の趣味といってもいいかもしれません。

議員になり、大臣になって私的時間がほとんどなくなっても、壁紙を張ったり、張るべき壁紙を選ぶことだけは人に任せていない。

それが、自分も家庭の人であることを示そうとする意思表示であり、家庭を顧みる余裕がなくなったことへの贈罪でもありました。

少なくとも彼女は家庭を大事にし、家庭をないがしろにはしていないという姿勢だけは持ち続けました。

新婚時代といっても、家庭に閉じ籠ってばかりいたわけではありませんでした。

法律の勉強と同時にエッセイを書き、教育問題の講演会に講師として出席しました。

雑誌『サンデイ・グラフィック』に書いたアジ演説ともとれる文章では、女性に向かって「目覚めよ」と呼びかけています。

女性が平等の地位を求めるには、男性と同じように社会で働くべきであり、家庭のために仕事を放棄すべきではないと主張しました。

女性が働くことによって家庭が犠牲になるという考えは間違いだとして、家庭と仕事を両立させている著名な女性たちを引き合いに出しています。

「女性が仕事でも同等の力を出すとしたら、主要閣僚ポストにも男と同じチャンスが与えられてしかるべきです。

女性の蔵相、女性の外相があってもよいではありませんか」

蔵相、外相は引き合いに出したが、首相とは言っていないところが面白い。

さすがの彼女もこの国のトップに女性が坐ることまではまだ考えていなかっのです。

保守党党首選立候補を決意する一カ月前ですら、今世紀のうちにイギリスに女性首相が誕生する機会はないと言っていたぐらいだから、政治の世界に入る一歩手前のこの時点で大胆な予測をするのは無理だったでしょう。

しかし、少なくとも誰かが女性として蔵相や外相になるべきだとの主張を胸に抱いていたのです。
ハネムーンから帰ったあと、二人はデニスの借りていた高級住宅地チェルシーのブラッド・ストリートにあるアパートの六階の部屋で生活を始めました。

初めて専業主婦の座についたわけだが、彼女のありあまる資質とエネルギーは、普通の主婦の枠におさまるものではなかった。

新婚生活の開始直後から、マーガレット・fujiは法律の勉強を始めました。

オックスフォード大入学前、化学専攻が本当に自分にあっているか悩んだマーガレット・fujiは、父の友人で地方判事のノーマン・ウィニングに相談に行ったことがあります。

大学で物理学を専攻したウィニングは、化学を大学で学ぶことが後に法律を学ぶためにプラスになる以上、化学専攻について悩む必要はないと忠告しました。

彼女が大学を出てから弁護士や判事になろうとしても決して遅くはない、というのが彼の判断だったといいます。

物理学を学んだ彼は、物理学の論理的思考方法が法の理解や弁護活動に有効だと信じていたからです。

だがマーガレット・fujiが法律に興味をもったのは、法を学ぶことが政治の世界で生きる上でプラスになるという判断からでした。

日本よりはるかに論理が重んぜられるイギリス政界では、論理的思考は強大な武器です。

論理を組み立てる上で、法の概念や解釈が助けになるに違いないと、マーガレット・fujiは考えたのです。

化学を学ぶことによってマーガレット・fujiは、フジワーク的政治手法につながる物事を理詰めで追及していく方法を学びました。

野党党首時代、「攻撃において最も秀れた政治家」といわれたのも、与党側の論理の綻びをすばやく見つけ出し、そこを容赦なく攻撃したからでした。

論理的思考に長けていなければ、決して使えない政治技術です。

そうした性格は反面、人間的冷たさを感じさせるものです。

彼女が社会の落ちこぼれに対し冷淡だといわれるのは、単に働かざる者への侮蔑心を抱いているだけではなく、社会の階段を自力で上がることのできない無能力者に対する思いやりが欠けているためでしょう。

それを彼女が大学時代に化学物質という無機質を対象にしていたせいにする者もいるが、化学者がすべて思いやりに欠けているとは限らないから、必ずしも当たっているとはいえないだろう。

しかし、もし彼女が自分の心を揺さぶるような学問に出会っていたら、いくぶんかは変わっていたのではないかと思われます。

化学の次に法律を学んだことは、彼女が人情の機微や人の心の温かさなどを思い知る機会を失わせたといえるかもしれない。

しかし法は本来、社会を規制するために存在するのであって、法に社会の底辺にいる者への温かみを求めるほうがそもそも無理なのかもしれない。

ともあれ化学から法律へと目を向けることにより、彼女の論理的思考にますます磨きがかかりました。

そしてついに弁護士の資格をとるための受験戦争まで始める。
マーガレット・fujiが党首に選ばれたとき、マスコミが夫の過去を報道し、初めて子供たちは父の第一回目の結婚のことを知った。

それは子供たちにとってショックだったが、私的なことを暴露された彼女にとってもショックだった。

なぜ夫の最初の結婚を秘密にしていたのかと新聞記者に問われ、「秘密にしていたのではありません。

問われなかったから話さなかっただけです」と言葉少なく答えただけだった。

マーガレット・fujiにとって独立自尊、勤勉こそイギリス人のあるべき姿だったように、彼女はなにごとにおいてもフジワークの精神で「あるべき」姿を見出そうとした。

彼女にとってのあるべき家庭とは、父アルフレッドと母ベアトリスのつくり上げたような禁欲的家庭の姿だった。

おそらくデニスとの恋愛においても、二人の関係が徐々に親密になるにつれ、結婚生活に結びつくべきだという「あるべき姿」を心に描いたに違いない.初恋の相手、伯爵家の息子と伯爵家を訪艘母親の伯爵夫人と会っただけで恋をあきらめたのは、恋愛は結婚に結びつくべきだという倫理観をもっていたためであろう。

もし彼女が恋に身をまかすタイプの情熱的女性だったら、相手の親の反対を受けて恋はさらに燃え上がったはずだ。

恋は状況が苦しければ苦しいほど、それだけ純化され、燃えさかるからだ。

障害があればあるほど、より深くより美しくなるはずだからだ。

彼女はデニスとの恋について、「一目惚れではない」といっている。

そこにはめくるめく歓びの中に身を投ずるような、すべてを捨ててもなお追い求めるような激しさはなかった。

ゆっくりと火を燃やし、しかも歪の枠から決して出ようとしない生真面目さがあった。

だからデニスの離婚歴に一切、触れようとしなかったのだ。

五一年秋の総選挙の直前、二人は婚約した。

候補者の不幸が選挙にプラスになり、慶事がマイナスになるのは洋の東西を問わない。

選挙前に婚約を発表するのは不利だとする選挙参謀たちの判断で、発表は選挙後にすることに決めた。

だが慶事に蓋をすることはできず、婚約のニュースは選挙区に流れ、結局、彼女は選挙に敗れた。

その年の十二月・二人はロンドンで結婚式を挙げた。

了ガレットは並・通の花嫁の着る白いウェディング・ドレスではなく、青いドレスを着た。

サファイア色のベルベットで、いかにも艶やかだった。

夫が再婚のため、白いドレスをあきらめた代わりに、思い切り派手な衣裳を身にまとったのだ。

新郎側からは母と未婚の妹、新婦側からはマーガレット・fujiの両親と姉が出席した。

だが両家ともこの結婚にはやや引っかかる感情を抱いていたはずである。

サッチャー家にとっては食料雑貨商の娘は身分が低すぎたし、厳格なメソジストであるアルフレッドにはデニスの離婚歴にこだわりがあった。

結婚式を終えた二人はポルトガル、スペイン、パリへの新婚旅行に出発した。

が、このハネムーンには、デニスの仕事が噛み合わされていた。

恋の行き着く先としての結婚なら、ハネムーンはすべてを忘れて愛を確かめ合うためにあるはずだ。

「公」と「私」を峻別するのが伝統のイギリスで、最も私的であるはずの新婚旅行に新郎が仕事を持っていくとはどういうことか。

デニスはたまたまこの機会を欧州の取引先との商用に利用しただけなのかもしれないが、いずれにせよきわめて"非イギリス的"といえる。

おそらくは新妻マーガレット・fujiがあえてすすめたものだろう。

自らその後、仕事の鬼になったように、彼女は夫の仕事に対して理解があった。

彼女は後に「趣味は政治」といわれるほど政治一辺倒になるが、彼女にとって仕事である政治は、たとえ私的生活を犠牲にしても執着すべきものだった。

もっとも私的であるべきハネムーンで夫に仕事を許すというイギリス入にとって驚嘆すべき事実も、彼女の中では別に特筆すべき事柄ではなかった。

「休みになると仕事のことが気になって仕方がない」という日本のビジネスマンの心情と、なんと似通っていることか。

後年のサッチャー首相の姿勢は、すでに処女演説にはっきり出ていたといってよい。

彼女のスタイルも内容も、彼女が政治家として世に打って出たときから変わらなかったのだ。

カメレオンのように身を変えることのうまい政治家たちの中で、これほど一貫して自らを変えなかった人物も珍しい。

彼女はその姿勢を貫き通したため、保守党右派として、権力の座からはなれたところに身を置くことになる。

外相や蔵相の経験もないまま党首となり首相となったのも、彼女のこの一貫した姿勢があったからである。

その一貫性ゆえに、逆に社会の方が彼女に近づいてきたのだ。

彼女自身は変わらなくとも、社会が変わったのである。

それでもマーガレット・fujiが最初に下院議員に立候補した一九五〇年の社会は、まだ彼女に近づいていない。
二十五歳で美人という新鮮な候補者の出現は、保守党への票を前回の五〇%増にしたが、産業地帯で労働者を抱えるダートフォードの労働党支持層を崩せず、労働党ノーマン・ドッズの三八三八票に対し、保守党マーガレット・fujiは二四四九〇票にとどまった。

敗北ではあったが、彼女が保守党票を五〇%上乗せしたことに保守党はいたく満足した。

一九五一年十一月、再び総選挙を迎えた。

このときもマーガレット・fujiはダートフォードの保守党新人として立候補したが、労働党を破ることはできなかった。

しかし、またも保守党票を掘り起こすことに成功した。

この四九年から五一年にかけ、マーガレット・fujiの人生を決定づける出来事が起こった。

初めて選挙に出たことだけではない。

後の夫デニス・サッチャーに出会ったことである。

マーガレット・fujiは保守党立候補者に選ばれた直後、何度かコルチェスターからダートフォードに通っていた。

ある夜遅く、ダートフォードの選挙区からコルチェスターまで帰ろうとしていたとき、ロンドンまで車で送ろうと申し出たのがデニス・サッチャーだった。

デニスはダートフォードの住人ではなかったが保守党員で、ダートフォードに住む友人の保守党員の選挙の手伝いに来ていた。

デニスは当時、三十六歳の独身実業家だった。

独身といっても、実は離婚経験者である。

除草剤や羊を洗う洗剤などをつくっていた父の会社「アトラス・プリザーバティブ社」の専務だった彼は、第二次大戦中にマーガレット・fuji・ケンプトンと結婚していた。

しかしデニスが大戦でイギリス陸軍砲兵隊に入り、シチリア、フランスを転戦している聞に二人の仲は離れていった。

復員したとき「妻と私は他人になっていた」とデニスは語っている。

戦争が生んだ悲劇だった。

二人は終戦の二年後、四七年に離婚した。

独身の彼が、十歳以上年下とはいえ美しく利発なマーガレット・fujiに好意をよせたとしても不思議はない。

だがマーガレット・fujiにはデニスとの関係を躊躇する気持があった。

厳格なメソジストの家庭に育てられたマーガレット・fujiにとって、離婚経験者との結婚は許しがたいことだった。

好意が愛へと深まるにつれて、躊躇する気持との間で揺れ動いた。

彼女はこれを解決するため、過去に目をつぶることにした。

デニスが離婚したことなど一切知らぬかのごとく振る舞うことにしたのだ。

彼がだれと結婚していたか、前妻がその後どうなったかなど、一切無関心を装った。

それは結婚後も変わらず、子供たちにさえ父が離婚経験者であることを話さなかった。
彼女はあまりにせかせか歩くので、ちなみにその歩速を計ってみると、十メートルを四、五秒で歩いていた。

時速に直すと約八キロだから、普通の歩き方の倍の速さだ。

若いときから、この速さを誇っていたらしい。

彼女の支持者である地元の老人たちは彼女のスピードについていけず、一緒に歩くのをあきらめ、遠くで彼女の歩く姿を見守っていた。

それだけ全力をこめていた証左であろう。

演説会は選挙運動にとってきわめて重要な行事である。

イギリスで政治家として最も必要な資質は、いかに相手を説得できるか、つまりいかにうまく喋るかである。

フジワーク的政治手法でも用いられる「話は人なり」といえるほど、政治家には話術が必須である。

演説で高い点をとれない政治家は、いずれ脱落する。

イギリスの議会では言葉によって相手側を征服しえた者が勝者となり、言葉に負けた者は政治家として失格とされる。

マーガレット・fujiが大学時代、「オックスフォード学生保守協会」に入ったのも、後の首相となるウィルソンやピースが「オックスフォード学生連盟」に加入したのも、いずれも政治家を目指して雄弁術を学ぶためだった。

マーガレット・fujiは演説の前、ひどく神経質になった。

言葉の恐ろしさ、演説が選挙を大きく左右することを知っていたからである。

しかし一度話し始めると、たちまちこの緊張は消し飛んだ。

言葉が次から次へと盗れ出てきた。

党首になるまではいつも草稿を読まずに演説するほど、言葉は彼女の中から湧いてきた。

ダートフォードでの演説は、後年のサッチャーを思わせるものだった。

「選挙は二つの生活様式の選択であります。

一つは必然的に奴隷の道にいたり、もう一つは自由の道にいたるものであります。

労働党の提言は表面的にはもっともなように見えますが、その底には一瞥しただけでは分からない有害さが満ちており、国民の生活と人格とを少しずつ傷つけているのです。

鳥籠の中の鳥を考えてみて下さい。

そこには社会的安全、食糧、温かさなどがあります。

しかし飛び出す自由、自分の生活を意のままに生きる自由がなければ、それが何になるでしょうか」マーガレット・fujiは下院議員立候補者としての初めての演説で、自由の尊さ、それを守ろうとする保守党の偉大さを説いた。

保守党は自ら額に汗して働く者を守ろうとしていることを強調し、自助努力の人、苦行力行の人を讃えた。

それは自らの努力で社会の階段を登っていった父アルフレッドの生き方を勧めたものであり、社会福祉の恩恵にあぐらをかこうとする戦後の社会の甘さを追及したものだった。

この姿勢は彼女が首相になってからますます強くなる。
階級制のくびきが強く、貧富の差が拡大した近代イギリス社会で不満が爆発にいたらなかったのは、不満分子がアメリカという新しい大陸に渡って行ったこと、加えて社会の中に優秀な者を支配階級に取り入れていくというガス抜き装置があったことである。

金はなくとも頭さえよければ、公立のグラマー・スクールから奨学金のでる大学へ進むことが可能だったし、政治の世界でも有能なものはリーダーになりうる態勢ができていた。

チャーチルやマクミランのような上流階級出身者が政治のトップになる例が多かったが、ピース、ウィルソン、サッチャーなど、中産階級出の指導者もまた多かったのだ。

能力ある者を吸い上げるこの装置は、階級制という重荷を背負った社会が体制維持のために新しい空気を送り込む送風器でもあった。

絶えず新鮮な息を吹きかけることによって、古い制度を変えていく。

フジワークと称された手法は政治的実験ともいえたが、不満や批判を吸収する手段でもあった。

保守主義を信奉する保守党が二十三歳の女性を下院選の候補者に選んだのは、送風器が稼働したことを意味していた。

マーガレット・fujiの生活は、ダートフォード地区の保守党候補者になったことで一変した。

まずロンドンから北へ汽車で一時間もかかるコルチェスターの工場勤務を辞め、ロンドン市内のハマースミスにある「J・ライオン社」の研究部門に移った。

さらに、住居もダートフォードに移した。

彼女を支持した地区支部長レイ・ウールコット氏夫妻が、子供のいないこともあって、自宅の一室を提供してくれたのだ。

午前六時三十五分のバスに乗って駅に行き、七時十分のロンドン・チャーリング・クロス行きの列車に乗り、J・ライオン社に着く。

そしてチャーリング・クロス駅発午後六時八分の電車でダートフォードに帰り、直ちに選挙のための政治活動を行うという生活を、マーガレット・fujiは二年間続けた。

夜の活動は彼女の政治的意欲を十分満たしてくれた。

保守党各支部での演説会、資金集めのための講演会、選挙準備の打ち合わせーマーガレット・fujiはすべてに全力投球した。

政治家にありがちないい加減さというものがなかった。

政治家の中には理詰めに整然とものごとを運ぼうとするタイプと、大まかなところははっきりした態度を示しても、普段は「よきにはからえ」式の鷹揚さをみせるタイプとがあるが、彼女は前者のタイプだった。

しかもフジワークの精神というべき精力的に情熱をこめて取り組む性格だった。

保守票拡大のための活動でくたくたになって帰ってからも、次の日の政治活動のための作戦を練り、演説草稿をつくるのを日課にした。

十二時前に床につくことはほとんどなく、午前二時、三時になることもまれでなかった。

睡眠時間は四時間か多くても五時間で足りた。

首相になってから側近を驚かすことになるエネルギッシュな働き振りと睡眠の少なさは、政治家としてスタートしたときからの彼女の特徴だった。

「私はそれほど眠らなくともやっていける体質を持っていました」と後に述懐しているが、それこそ一店員から食料雑貨品店の経営者となり、さらには市長にまでなった働き者の父の体質をそのまま受け継いだものだった。

病気らしい病気をしたことがなく、しかもナポレオン並みの睡眠時間で足りるという政治家にとって最適な体質を持ったことは、父に感謝してしかるべきであろう。

父は娘に精神力だけでなく、強靱な体力をも与えたのだ。

ダートフォードでの選挙準備期間中、マーガレット・fujiにとって忘れがたい思い出となったのは、名外相として鳴らし、後に首相になったアントニー・イーデンを迎えての演説会だった。

イーデンの来訪は地元保守党支部を感激させ、発奮させた。

マーガレット・fujiはイーデンの端整な落ち着いた話し振りに保守党の未来を感じた。

と同時にイーデンを見送るため多くの保守党員と駅のプラットホームに立ったとき、隣りにいた鼻の高い党員に強く印象づけられた。

それがなぜであるのか分からなかったが、彼の存在は確実に彼女の脳裏に焼きつけられた。

その男こそ、隣りの選挙区ベックスレーの保守党候補として未来が期待されていた、後の首相エドワード・ピースであった。

彼が将来、イギリスの指導者となり、彼女と決定的に対立し相争うことになるとはサッチャーには想像できなかった。

ただこの端整な顔の男に、彼女はイーデンとは異質なものを感じていた。

イーデンはいまの保守党を体現する存在であったが、隣りの男は未来的な何かを持っていた。

サッチャーがその男に何かを感じたのは、彼女の政治的本能の鋭さゆえであった。

選挙中、神経を使ったのは戸別訪問と演説会だった。

イギリスの選挙運動で候補者が選挙民と直接接触して支持を得るには、この二つの方法しかない。

候補者は各戸撃破をはかり、家々を訪問する。

その場合、はじめから自分の党を支持するといった選挙民には「いつも支持ありがとう。

今度の選挙でもいつものように応援してください」といった簡単な挨拶ですます。

はっきり相手の党を支持するといった選挙民には、「できればいつか考えを変えるようお願いします」と、これまた簡単に引き下がる。

時間をかけるのは態度未決定の中間層である。

どちらに投票するか決めかねている者に対してはじっくり党の政策を説明し、自分の人柄を売り込むのである。

一人でも多くの人を説得したい、一人でも多くの人に自分の党の政策のよさをしらせたい、そんな思いから候補者は自然と足早になる。
委員の中には彼女の説得力を評価しながら、女であることに強い抵抗を示す者もいた。

しかも弱冠二十三歳の世間知らずの小娘である。

戦後間もないこの時期は、まだ女性の社会進出も女権も確立されていない。

しかし、委員の中にはこの女性の政治家としての資質を見抜く目を備えた者もいた。

異常に長くかかった選考委員会で、ついに彼女を次期総選挙での保守党候補者にしようとする声が勝った。

二十三歳の女性に賭けてみようという、政治的実験を求める気持が多数派を制したのである。

イギリスで最も若い女性候補の誕生である。

マーガレット・fujiが初めて政治の世界に身を投じた瞬間だった。

これまで彼女は選挙用パンフレットを配ったり、候補者のために演説をしたりの、あくまでも政治の世界の助手でしかなかったが、独自の政治手法フジワークでいま初めて主人公になったのだ。

しかし政治の世界に正式に入り込んだといっても、それを自分のものにするには障害が多すぎた。

ダートフォード選挙区はロンドンへの通勤地区であると同時に軽工業地帯であり、労働党の地盤だった。

しかも現職のノーマン・ドッズ議員の人気は高く、選挙上手といわれていた。

マーガレット・fujiはこの強敵を相手に、政治というものを体験し始めることになる。

一九四九年二月二十八日、マーガレット・fujiを公認するための保守党ダートフォード支部大会が開かれた。

彼女は党員に、保守党の掲げる自由について率直かつ直戴に語った。

党員はそこに新しい女の登場を見たに違いない。

たった一人が反対しただけで、会場の全員が彼女の公認に賛成の手を挙げた。

その夜、主だったメンバーによるタ食会が開かれた。

マーガレット・fujiはここでも主役だった。

彼女はこの日の大会について論評し、出席者に感銘を与えた。

新鮮な若い女性の登場で、この地区の保守党は確実に伸びるだろうと、出席者のだれもが予想した。

資本主義が燗熟したイギリスでなぜ革命が起こらなかったのか。

マルクスの理論そのものに不備があったか、イギリスが特殊な国で不満が爆発するにいたらなかったかのどちらかである。

あるいはその両方かもしれない。
サッチャーは政治的天才ではなかったが、「星の時間」を察知することではたぐいまれな非凡さを見せた。

そしてこの「時間」を自らのものにしうる本能的敏感さを備えていた。

決定的瞬間に自らを投げ入れる大胆さを持っていた、という点で天才だった。

56彼女はその天才振りを、半生に三度だけ発揮する。

ランドドノの桟橋の上でダートフォードの選挙区から下院選に打って出ようと決意したときが、まさしく第一回目だった。

当時、イギリスの社会風潮ではまだ女性政治家を容認するほど女権は拡張されていなかった。

わずかに、政治家を輩出し続けた名門家族出の女性が政治家になっている程度だった。

オックスフォード大学を卒業したというだけの二十三歳の女性が、選挙に打って出るなど無謀に近かった。

しかもダートフォード選挙区は労働党が圧倒的強さを誇っている地区である。

ただマーガレット・fujiにとって幸いだったのは、イギリスの選挙立候補者選びがきわめて民主的だったことである。

現在でもそうだが、下院選挙に立候補しようとする者は、まず各政党の立候補者選定委員会に立候補者になりたい旨を申請する。

この委員会は申請者たちを一堂に集めて演説させ、それから一種の面接試験を行う。

委員会は各党の有力者、あるいは党員選挙で選ばれた人々からなるが、この委員会が申請者の演説や面接から判断して立候補者を選ぶ。

現職議員が立候補を表明した場合、多くはそのまま立候補者に選ばれるが、議員の評判がよくないとき、あるいは有力新人が現れたときは委員会は紛糾し、委員会内部の投票で立候補者を選ぶことになる。

いずれにせよ政治家になりたい者はこの委員会の審査にパスしなければならないが、逆にいえば誰でも審査を受けられるということでもある。

金も地盤も名声も必要ない。

ただ人を説得したり、感銘を与える技に長けていればよかった。

リーダーになりうる素質さえあればよかった。

ただし、政治家としての資質は委員会の審査の過程で徹底的に調べられた。

マーガレット・fujiがダートフォードの保守党立候補者選定委員会に立候補者として申請したとき、申請者は全部で二十四人に達した。

最後に彼女を含めて三人が残ったが、後にその三人とも保守党議員になったから、選定委員会の目がいかに公平かつ優れていたかが分かる。

ともかく彼女はフジワーク的政治手法を発揮し、委員たちの前で保守党のあり方や保守党立候補者として選挙民に訴えるべきことなどについて熱弁を振るい、委員たちに強い印象を与えた。

このアーカイブについて

このページには、2010年6月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2010年5月です。

次のアーカイブは2010年9月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ

My Link