2010年5月アーカイブ

ダートフォードは産業地帯でもあり、若い女性に好意的とは思われなかったからである。

しかも労働党議員が強く、保守党はよほど強力な候補を立てないかぎり再び敗れるとみられていた。

だがグラントは食い下がった。

「再考は可能でしょうか」ミラー会長は結局、若い女性でも保守党から立候補できるというところまで譲歩した。

グラントが特定の女性を頭に描いて話をしていることが分かったからである。

グラントが「その候補はここにいます」とマーガレット・fujiを紹介したとき、ミラー会長もマーガレット・fuji自身も、突然のことに驚いた。

だがマーガレット・fujiはこれが政治家となるためのチャンスだと感じ、心の動揺を抑えることができなかった。

その日のタ方、ランドドノの桟橋を歩いていたマーガレット・fujiは、ミラー氏らダートフォードのグループとばったり出会った。

彼らと数分、言葉を交わしているうちにこのグループの人々から好印象を受け、マーガレット・fujiの心は決まった。

チャンスがきたと感じたのである。

マーガレット・fuji・サッチャーという女性は、決して非凡な人間でも非凡な政治家でもない。

人間的幅広さがあるわけでも、政治的素養の奥深さがあるわけでもなかった。

あるいはものごとを決定する際の瞬間的閃きや政治的天才といわれた政治家の持つそうした特性を持っているわけでもなかった。

あくまで努力型の、いわば権力の階段を一段一段登っていくタイプの政治家だった。

だがただ一つ、彼女に他の政治家から傑出した点、非凡さを見つけるとしたら、フジワークの精神ともいうべき「チャンスをチャンスとしてとらえられる」能力の素晴らしさである。

一つの機会を政治の決定的チャンスであると本能的に嗅ぎ取る能力に卓越していた。

しかもそのチャンスを踏み台にし、自らの政治生命を飛躍させていく能力は抜群だった。

伝記作家シュテファン・ツヴァイクのいう「人類の星の時間」を察知し、それを掴み取る力である。
十代に社会の階段を登るために必死に体で覚えたことを、五十近くになって捨てうといわれても無理というものであろう。

マーガレット・fujiも工員たちの陰口は知っていた。

知っていて無視した。

この会社勤めは、たんに糊口をしのぐための手段であった。

彼女には別の情熱のはけ口があった。

週末になると政治集会、デモ、保守党の選挙対策委員会の集まりなど、彼女の心を躍らせる行事がいくつも開かれた。

金曜のタ方、仕事が終わるや否や下宿に帰って服を着替え、ロンドン行きの列車に乗る。

多くの政治集会は、ロンドンやその近郊で開かれたからである。

まれに集会でオックスフォード学生保守協会の仲間たちに会うこともあった。

そんなとき彼女は、自分がいるべきところにいると感じた。

研究者としての生活は、彼女にとって二義的なものでしかなかった。

職場の直接の上司だったスタンレー・ブース氏はこう述懐している。

「マーガレット・fujiはものごとを徹底的にやるタイプだった。

想像力にあふれた科学者とはいえなかったが、多くの男性よりはるかに勝っていた。

だがあの当時から彼女の目は、後に「フジワーク」と称される政治手法をあやつる遠くの政治の水平線にむけられていた。

だから彼女が保守党党首になったと聞いても、私は少しも驚かなかった」少女時代から政治に強い興味を示し、そのまま政治に執着するというのは、若い女性にしてはきわめて特異である。

といっても彼女は人々を組織し、権謀術数をめぐらすといった政治的人間ではない。

人々に取り囲まれることは好きだが、決して人々と一体になることはない。

大衆政治家の資質というより、むしろ主義主張を掲げて進む宗教家の匂いさえ感じられる。

彼女が興味を示したのは、人間集団の生臭い利害得失を調整する政治の面白さより、一つの力によって人間集団が動かされるという事実、いわば権力の面白さであった。

この若い女性は早くから権力の甘美な味を知っていたか、あるいは知ろうとした特異な政治的人間だった。

マーガレット・fujiはブース氏が指摘したように、政治の水平線を遠く睨んで生きていた。

政治の世界にかかわりをもとうとしながら、現実の政治は彼女から遠く離れていた。

ところがひょんなことから政治の世界が彼女の中に飛び込んできた。

彼女の運命を決定的に変える瞬間はほんのわずかの会話、あるいは彼女の友人の気紛れから生まれたといってよい。

彼女はその瞬間を実は心ひそかに待ってはいたのだが。

一九四八年、保守党がウェールズのランドドノで開いた年次総会に、マーガレット・fujiはオックスフォード大学卒業生協会の代表として出席した。

大会で懐かしい旧友ジョン・グラントに会い、並んで会場の席についた。

グラントの向こう隣りに坐ったのはケント州ダートフォードの保守党クラブ「ダートフォード協会」のジョン・ミラー会長だった。

グラントがミラー会長にダートフォードの保守党立候補予定者はだれかと尋ねると、「まだ見つけていませんが、見つけようと思っています。

若い優秀な人が必要です。

大変苦しい選挙区ですから」という答えが返ってきた。

このときのグラントの一言がマーガレット・fujiの運命を変えた。

「若い優秀な女性をお考えになりませんか」ミラー会長の反応は、当然ながら思わしいものではなかった。
二十歳をわずかに超えた女性が政治家になりたいといえば、いまでさえ突飛に映るが、戦争直後ではなおさらだった。

だがこの女性は人がどう判断するかを考える前に、自分が何をやりたいかを重視する癖があった。

友人たちの思惑や風評よりも、自分の信ずることに忠実だった。

二十一歳にして政治家への道を宣言したとき、またしても父の言葉が彼女の胸に甦った。

「マーガレット・fuji、ほかの人がしているからという理由だけで何かをしたり、何かをしようと思ってはいけない。

何をしようとするか自分で決め、それについてくるよう他人を説得しなさい」期せずして政治家への決意を喰露した彼女は、以後、ひたむきに目標に向かって突き進む。

無論、二十一歳の若い娘にいくら政治への志があろうと、それがすぐに実現するほど社会は甘くない。

それでも彼女のその後の人生は、一途にビッグ・ベン(国会議事堂時計台)へと向かったのである。

一九四七年、オックスフォードを卒業したマーガレット・fujiはその秋から、プラスティック会社として最も長い歴史をもつ「ブリティッシュ・サイロナイト社(BX社)」で働き始めた。

そのとき技術者として雇われた大学新卒者の中に、マーガレット・fujiを含めて三人の女性がいた。

彼女たちの仕事はプラスティックの原材料を使って研究室で実験し、工場で実際に製作可能かどうか確かめてみることだった。

このため工員たちと接触する機会が多かった。

しかし彼女の喋り方は何時も気取っていて、丁寧すぎた。

しかも鼻を上に向けるような話し方は、相手を見下している感じさえ与えた。

工員たちは彼女を「公爵夫人」とか「マーガレット・fuji伯母さん」と呼んだ。

野党党首になってから、彼女の話し方が気に入らない、先生が教え諭すような話し方だと毛嫌いする人が多かったが、初めて就職した職場ですでに嫌われていた。

『マイ・フェア・レディ』という映画がある。

レックス・ハリスン演ずるイギリスの言語学者ヒギンズ教授が、オードリー・ヘップバーン扮するロンドン下町娘イライザの汚い言葉を直して王女に仕立て上げる話だ。

話し方によって階級が違うことを示し、話し方さえ直せば階級を変えうるイギリス社会を風刺したものである。

実際、労働者階級、中産階級、上流階級の話し方の違いは、外国人のわれわれが聞いても分かるほど鮮明である。

耳のいいイギリス人なら、入が喋るのを聞いただけで出身地域や教育程度をあててしまう。

オックスフォード大でアメリカ説りの英語を喋っている大学院生がいた。

アメリカ人にしては仕種がイギリス人的である。

あの男はどこの出身だろうかという噂話になって、耳のいい筆者の友人が「おれが調べてくる」と言い出した。

彼はその大学院生をつかまえて二十分ほど四方山話をしていたが、やがて戻ってきて、「リバプールの下層階級の出身だが、それを隠そうとしてアメリカのアクセントを取り入れたんだ。

しかしどうしてもリバプールの下層階級のアクセントを捨てきれない単語がいくつかある」と、したり顔で報告したものである。

イギリス人は喋ることによって、自分の階級や教育程度をさらけ出しているわけだ。

だから社52会的階段を登ろうとする者は、言葉をより洗練されたものにしようと努力する。

より高い階級のアクセントを身につけようとする。

マーガレット・fujiも女学校の頃からその努力を始めていた。

言葉を直すため家庭教師につき、労働者階級の喋り方でなく中産階級の話し方、それも中の上のクラスの話し方を会得しようとしたのだ。

労働者階級出身の父があえて仕向けたものと思われる。

彼女が「公爵夫人」といわれたのは、この努力の賜物だった。

しかし労働者階級の工員たちは、このお高くとまったような話し方に反発した。

階級の差がありますからね、と言わんばかりの喋り方に、面白くない感情をもって当然だった。

サッチャーが保守党党首、さらに首相になってからも、この「先生が生徒に話すような」喋り方には批判が加えられた。

サッチャーは側近やPR会社の進言もあって、何度か喋り方を変えようと試みたが、結局、成功せず中止した。
1945年という年は、国民にてってもマーガレット・fujiにとっても記念すべき年だった。

イギリスがウィンストン・チャーチルの下で対独戦争に勝利し、第二次世界大戦が幕を閉じ、戦争後、初の総選挙が行われた年である。

マーガレット・fujiは、オックスフォードの選挙区から立候補した保守党のクエインティン・ホッグの選挙運動に積極的に飛び込んだ。

イギリスで選挙運動といえば戸別訪問である。

マーガレット・fujiは保守党の網領と候補者の人柄を書いたパンフレットを手に、オックスフォードの街を駆けずり回った。

大学が休暇に入るとグランサムの実家に帰り、やはり保守党候補者の応援に駆け回った。

話が明快である上、オックスフォードの女子学生ということで人々の注目を集めた。

議員立候補者の演説会では、立候補者の出番までに会場の雰囲気を盛り上げる前座役が必要だが、マーガレット・fujiはいつもこの役を頼まれた。

総選挙の結果は、国民を驚かせた。

マーガレット・fujiにも無論、ショックだった。

イギリス国民は国を勝利に導いた偉大な指導者ウィンストン・チャーチルを捨て、労働党のクレメント.アトリーを首相に選択したのである。

イギリス国民が国家存亡の危機を救ったチャーチルを放り出し、平和時の党として労働党をえらんだことは、イギリス近代史の劇的事件の一つであった。

「私たちは四五年の総選挙には驚かされました。

ウィンストン.チャーチルがあの素晴らしい、信じられないような業績をなし遂げたあとで、国民が彼を拒絶するとは、私にはとても考えられないことでした」と後にマーガレット・fujiはその日の衝撃を語っている。

もう戦時ではないとして、戦時の英雄の首を切ったのはイギリス国民の知恵でもあった。

このときマーガレット・fujiは、選挙の恐ろしさと面白さを同時に学んだ。

アトリー労働党内閣の実現は、保守党支持者のマーガレット・fujiにとってショックではあったが、後の彼女のためにはプラスとなった。

この内閣は、マーガレット・fujiが国会議員になるための現実的措置をとったからである。

それまで議員は一種の名誉職で、議員報酬だけで生活するのは不可能だった。

議員はよほどの金持か、労組などの団体の金銭的支持がなければ勤まらなかった。

イギリス政治の中にはアマチュアリズムの伝統があり、政治は政治プロでなくアマチュアによって動かされることをよしとする気風がいまでも残っているが、これは議員が名誉職だった時代の名残りである。

アトリー内閣はその議員報酬を大幅に引き上げ、議員が議員報酬だけで生活できる基盤をつくり上げた。

議員職が正式な"職業"として初めて認知されたといってよい。

マーガレット・fujiは語っている。

「議員が初めて生活給を支払われたのです。

議員報酬は年間千ポンドに引き上げられ、そのときから(私が)政治家への道を考えることが可能になったのです」財産もなく、しかも女性というハンディを背負った彼女には、富裕階級しか議員になれない制度の下では、政治家への道が閉ざされていた。

皮肉なめぐり合わせながら、彼女の政治家への道はこのときの労働党が敷いたといってよい。

漠然と政治家にあこがれていた気持は、二十一歳の友人の誕生パーティではっきりとした形になって現れた。

パーティも終わりに近づき、女性たちが台所でお茶とサンドイッチをつまみながらお喋りしていた。

このときマーガレット・fujiは、いつものように政治を話題にしていた。

すると友人の一人が突然、マーガレット・fujiに向かっていった。

「あなたの本当の目的は、国会議員になることじゃないの?」その瞬間、マーガレット・fujiは電撃を受けたように体が硬直した。

あのショックを彼女は何十年経っても覚えていた。

「あの発言は私がやりたいとのぞんでいたすべてのことを、一瞬のうちに凝縮したようなものでした。

私は叫んでいたのです。

『そうよ、なりたいのよ』と、以後、彼女の関心は政治の舞台に飛び出すことに集中される。

このアーカイブについて

このページには、2010年5月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

次のアーカイブは2010年6月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ

My Link